■中学生時代にプロレスにのめりこむ
―生まれも育ちも中原区だそうですね
大原:武蔵小杉駅前の聖マリアンナ医科大学東横病院で生まれて、サクラノ幼稚園、下沼部小学校、玉川中学校です。
―中学生の頃にプロレスラーを目指したとか。きっかけは何だったんですか
大原:きっかけは、中学校の仲間たちとあるゲームが流行ったんです。スーパーファミコンのプロレスゲームだったのですが、プロレスってゲームの世界だと思っていました。こんな技ができるわけがないという先入観があったんです。
ところが、中学1年生の2月でしたが、テレビで、三沢光晴さんの試合を観て、タイガードライバーという技が僕の中では衝撃的で、何回もビデオを巻き戻しして観て、それでプロレスにすっかり魅了されてしまいました。
そこで、親にプロレスラーになりたいと中学2年生の春に打ち明けたところ、父親が、池上に高田延彦さんの道場があるから通いなさいと言われました。そこからプロレスに一気にのめりこみました。
当時、高田さんの自伝を読んだのですが、その自伝の中で、アントニオ猪木さんが「プロレスラーというのは、ヒンズースクワットを1000回やって、腕立て伏せを300回やる」と言っていたと書かれていました。それで僕は「俺もやらなければ」と思って、それをやるためには学校に行っている場合じゃないと思い、学校に行くのをやめてしまいました。
みんなが勉強している中で、「俺はプロレスラーになるから、勉強をしている場合じゃない」と思ったんです。それで、午前中に多摩川を走ったりヒンズースクワットをやって、学校では5時限目に体育館に勝手に入って、マット運動をするという、相当、変わった生徒でした。
ただ、中学生がいますぐプロレスラーになるのは無理だとはわかっていたので、どうしようかと思いましたが、弟子入りすれば料理をさせられることが分かっていたので、料理が上手くなれば、先輩に可愛がられるなと思い、服部栄養専門学校に進むことにしました。
■メキシコでデビューし世界ウエルター級王座をとる
18歳の時に将来、どうしようかと考え、当時、僕が一番面白いなと思っていた「闘龍門」というプロレス団体に入門しました。そこのシステムが面白くて、神戸に道場があって、そこで半年間修行して認められればメキシコに行くというシステムでした。そこで、メキシコに渡ることになりました。
―21歳の時に、メキシコでNWA世界ウェルター級王座をとりましたね
大原:メキシコに渡ってしばらくは、プロレスではメシが食えませんでした。それこそ観客が5~10人とかということもざらにあって、ギャラも200~300円で、バス代と水代で終わってしまうようなことも多かったです。
その当時、たまたま、メキシコに全日本プロレスや新日本プロレスから来ている3人組のチームがあったのですが、一人が日本に帰ることになって、その抜けた穴に僕はスッと入ることができたんです。
そこから人生が変わって、いきなり大きな試合に出られるようになり、10カ月後ぐらいにNWA世界ウェルター級王座をとったんです。デビューして1年3カ月ぐらいにそういう奇跡的なことが起きました。
苦境を乗り越えてNWA世界ウェルター級王座を獲得
■祖父母の介護で自分本位な人生観が激変
―その後、日本に帰ってきて夜間の高校に進みましたね
大原: 25歳の頃、日本に帰ってきて、28歳ぐらいの時に、祖父母の介護を体験するんです。僕の実家は3世代住宅で、1階が祖父母、2階が僕の家族、3階が母親の弟の家族が住んでいました。
祖父が転倒して骨折し介護が始まりました。さらに認知症も進んできたのです。どんどん介護生活になってきて、なんとなくテレビなどで見てきた認知症や介護などが自分と直結しました。それで介護を通じての体験が自分の自分本位な人生観をものすごく変えました。
調べてみると、交通事故などよりも転倒して骨折して寝たきりになる人が多いことがわかったのです。僕はプロレスラーなので、強靭な肉体をつくるノウハウは持っているし、栄養専門学校を出ているので、少しは栄養学もわかっているので、身体づくりを教えることで転倒を防ぎ、寝たきりを防ぐことができるのではないかと思いました。
すると、たまたま、母親が中丸子のいこいの家で働いていたので、そこで体操教室をやろうと思って、筋肉トレーニングのボランティアを始めました。それが好評で、役所の人も見学に来て、その縁で、とどろきアリーナや川崎生涯学習プラザでの体操教室がレギュラー化してきました。
だんだん色々なところで教えることになったので、これは介護福祉士とか健康運動指導士などちゃんとした資格を取った方がいいのではないかと思ったのですが、資格を取るにはすべて高卒が条件でした。そこで夜間の高校に進んだのですが、巡業で仕事が休めず、四国から戻って授業に出て、次の日は大阪まで行くといったような過密スケジュールでした。
―大学に進学するきっかけはなんだったのですか
大原:当時、星槎大学からスカウトがありました。プロスポーツ選手のセカンドキャリアプログラムがあるというので、教員の免許を取りませんかというものでした。通信制なので高校の時のように出席日数に怯えるということはなくて、自分で授業が選べるし、4年間で卒業する必要もないというものでした。それはいいなと思って、大学に行くことにしました。
夢をかなえてプロレスラーとして世界に飛び出し、日本武道館や東京ドームなど、日本のエンターテナーが夢に描くような場所を経験できていて、その夢をかなえた人間の言葉には説得力があるのではないでしょうか。「俺は夢をかなえたよ。かなえたけど、結局、必要なのはいつも学びだよ」という言葉を、教師として子どもたちに伝えたいと思っています。
■川崎ラブで地域活動を積極的に展開
―一方、地域活動にも積極的ですね
大原:川崎生涯学習プラザの講師として、介護予防の体操教室を開いています。また、川崎市スポーツ協会主催でとどろきアリーナでも体操教室を開催しています。社会福祉協議会の方から老人施設などで呼んでいただくのも、すべて介護予防のボランティアです。
とどろきアリーナでの介護予防の高齢者筋力トレーニング
―中学生を相手に特別授業をされることもあるそうですね
大原:僕が中学の時にいかに夢を持って取り組んで、どのようにして夢をかなえたかということと、ここはこうした方が良かったという経験を話して、これからの人生で役立ててもらおうと、僕なりのしくじり先生をしています。プロレスをただ楽しんでもらうだけではなくて、プロレスを通じたキャリア教育ができるなと感じています。
―地域活動を熱心にやられている原動力は何ですか
大原:きっかけは介護をすることで、自分本位な人生を見直したことですね。ただ、そもそも僕は川崎市生まれで、川崎生まれの人って、地元・川崎がすごく好きなんですよ。地元愛が強い習性の地域で、なおかつその中でも、さらに地元愛が強いんだと思います…川崎ラブですね!
―川崎大会が直前ですね
大原:8月12日にカルッツかわさきで大会を開催します。ただのプロレス興行だけでは納得できなくて、川崎のために何かできることはないかと思い、音声実況ガイダンスという方法で、視覚障がい者の方にもプロレスが楽しめるように工夫を凝らしています。
最初は半信半疑で、「目に見えない方がどこまで本当にプロレスを楽しめるんだろうか」と思いましたが、試合が終わった後に、障がい者の方はとても喜んでくれて、「私たちは、エンターテインメントの場からそもそも排除されているんです」と言われ、目の見えない方でも楽しめる機会、エンターテインメントの場づくりが大事なんだと気づきました。
それが僕には結構、衝撃的で、「これは毎年やらなければならないな」…場をつくることがまず大事だなとアタマが切り替わりました。今年も42人、参加希望者がいらしてくださいます。また、小中学生は無料です。ちなみに今大会は僕の20周年記念試合もあります。
―今後の抱負を教えてください
大原:平日は教師で教壇に立ち、週末はプロレスラーとしてリングに立つ、グレイトティーチャー大原として、川崎をプロレスと教育と福祉の3本柱で盛り上げる男になることが目標です。
―読者へのメッセージをお願いします
大原:中原区に僕のような人間もいるということを知ってもらって、仲良くしていただければと思います。一緒に中原区をより素晴らしい街にしていきましょう!ムイビエン!
現代社会は、地縁、血縁、社縁(職場の縁)が希薄になり、個々人がバラバラに分断され、多くの人が孤立するようになりました。そんな社会を修復するにはどうすればいいか。その一つの解が、新たなコミュニティを創造することだと思っています。