■大学を休学し演劇をしながら世界をめぐる
―高校時代はミュージカルをやられていたそうですね
Ash:演劇部といった部活ではなく、有志でミュージカルを作っていました。演目としては、「レ・ミゼラブル」を丸ごとコピーしていました。それで、本場の「レ・ミゼラブル」を観なくてはと思ったので、短期留学にかこつけてイギリスまで観に行ったんです。そこから、ミュージカルにはまっていきましたね。
―高校生でミュージカルの「レ・ミゼラブル」をやるのは珍しかったのでは
Ash:私が高校3年生の時に文化祭で「レ・ミゼラブル」をやったのですが、帝劇のプロの役者さんや演出家の方が、私たちの劇を観に来たほどです。その時、私は主役を務めたのですが、帝劇の演出家の方が、「君は役者としてもいいけど、演出家の才能もあるね」と言ってくださったことが、演劇を志すきっかけとなりました。
―とはいえ、いったんは慶應義塾大学に進みましたね
Ash:慶應湘南藤沢キャンパスのITに強い学部に進みました。当時、インターネットが黎明期で、windows95が発売された年に入学したのですが、私は、「これから絶対にこの技術が必要になる」と思ったのです。
入学してみたら、AO入試で合格した人などは、一芸に秀でた人が多くて、オリンピックの強化選手や囲碁のプロ棋士など、レベルが違うと思った人たちが大勢いました。それで、私も当時日本ではまだメジャーではなかったミュージカルを専門的にやりたいと思って、大学を休学して、ブロードウェイスタイルのミュージカル公演をしながら世界中の都市をめぐる米国の青少年育成団体に入り、10ヵ国80都市を回りました。
新丸子を舞台に、参加者と物語を作る演劇ワークショップを開催(丸子温泉)、生まれた物語は街歩き絵本『シン・マルコちん』となり、アートイべント当日と近隣の小学校や商店で配布された
■東京藝術大学で演出家の宮城聰さんと出会う
―帰国後、いったんは就職するものの東京藝術大学に入り直しますね
Ash:当時、東京藝大に演劇を学べる学科ができることになったので、「これしかない!」と思い入学しました。そこで演出家の宮城聰さんと出会いました。宮城さんの舞台は、頭で計算されているのに、身体性として花ひらく…ロジックだけではなくて、感覚に訴えてくるような演出がすごく好きです。
私が日本に帰ってきた理由が、日本語の音楽性の高いミュージカルを創りたかったからなのですが、それを宮城さんがすでにやっていました。だから、宮城さんに演出を学ぼうと思って、彼が代表を務めるク・ナウカ シアターカンパニーに入団しました。
―その宮城さんから演出家の鈴木忠志さんにも学べばいいよとアドバイスされたとか
Ash:鈴木さんは海外でも有名な俳優訓練法「スズキ・トレーニング・メソッド」を編み出していて、富山県利賀村で演劇塾を開いています。1か月ほど利賀村で宿泊して、昼間は稽古をし、夜はコンクールのための塾生の芝居を観て、週末は鈴木さんの芝居を観るといったかなりハードなプログラムをこなしました。鈴木さんのお芝居はとてもスケールが大きくて魅了されましたね。
■川崎市で劇団「カワサキアリス」を旗揚げする
―宮城さんの静岡県舞台芸術センター芸術総監督就任を機に、川崎市で活動を始めましたね
Ash:そうですね。県立川崎高校演劇部の外部講師を務めながら、川崎高校のOB・OGと、「カワサキアリス」という劇団を結成しました。この川崎高校の近くに「川崎ファクトリー」というすごく素敵な建築設計事務所のスペースがあって、その出会いが、私にとってはとても大きいです。
その建築設計事務所の代表の渡辺治さんが、「よかったら、この場所を使って」と言って稽古場として事務所のスペースを貸してくれたので、そこに毎日のように通って「カワサキアリス」の作品作りをしていました。
ただ、川崎高校が特殊だったのか、時代の風潮だったのか、また、演劇がそういう人を引き寄せるのかわかりませんが、ちょっと心を病んでいる子があの頃は多かったです。そういう子たちの救いになればいいなと思って、利賀村に連れて行ったり、寝食を共にしたような日々を過ごしました。いろんな悩みも聞きました。
川崎市の地域資源として、こういう子たちが演劇で表現する場がもっとあればいいなと考えたのが、「カワサキアリス」を結成した理由です。別に芸能界を目指すわけではなくて、芝居をやらなければ生きていけない子たちがいるから、そういう子たちを活かせる場を、地域の中で創造することができないかなと考えたのですが、今は諸般の事情で休止しています。
「カワサキアリス」のレパートリー作品『走れメロス』(2014年Bra-ba!かわさきアートフェスティバル/川崎市市民ミュージアム公演)
―現在、活動としてはどんなことをされていますか
Ash:私個人としては、事務所に所属して、役者をしています。舞台でも映像でも、一から勉強させてもらっています。私が学んできたミュージカルや演劇のカテゴリに収まらないものもいっぱいありますし、学ぶべき新しいこともたくさんあります。一昨年は渡辺えりさんのお芝居に出させていただき、去年は野田秀樹さんの育成プログラムに参加しました。
■「その日」までずっと表現を続けていくのが目標
―今は演出家というよりは俳優をしているのですね
Ash:そうですね。でも、演出で学んできたことがなくなるわけではありません。すでに世界的な評価を受けつつ挑戦を続けている宮城さんの背中を、見続けていかなければいけないとは思っています。
私が大事にしていることって、間(あいだ)みたいなものなんです。「あわい」とも言いますが、生と死のあわい(交わるところ)が気になるから芝居をやっているんです。外国と日本、大人と子ども、男と女の間…、言葉にならないその部分にどうしようもなく惹かれるんです。
逆に私は自分をそういう存在だと思っていて、どっちかにカテゴライズされるのが、すごく嫌いなんです。学生時代でも、グループに所属するのが嫌で、徒党を組むのがすごく嫌いでした。ですから、劇団というのも実はあまりなじまず、演出家として限界を感じたのは、集団を率いていくことが演出家だからです。それは私にはあまり合わないなと思っています。
仲間をつくること自体は好きですし、コミュニティの中にいることも嫌ではないんですが、そこでガチっと固められるようなことがすごく苦手です。だから、そういう危険を感じるとふわっと存在を消しちゃうようなところがあるんです。
―その中で、川崎市の面白さは何でしょうか
Ash:それは川崎市が外部に開いているからです。川崎市は地方都市ではありますが、常に外の面白い何かが入ってきます。韓国文化にしても、インド文化にしても、それぞれのコミュニティがちゃんと混在していて、川崎市に居ながらにして、世界のカルチャーを知ることができる。多様な文化、そこが私にとって一番の魅力です。
川崎市制100周年記念トークセッション「Colors Future! Smmit」ではファシリテーターを務めた(右端/SUPERNOVA KAWASAKIにて)
―これからの抱負をお聞かせください
Ash:繰り返しですが、生と死の間にいるから役者なんですね。今年は敬愛する先輩女優を含め、唐十郎さんや天児牛大さんなど、目標にしていた多くの演劇人が旅立ちました。向こうの演劇祭に呼ばれたんだろうなと思っています。私はまだお呼びがかからないので、まだ、こっちで精進する必要があるんだと思っています。だから、晴れて呼ばれるその日まで一瞬、一瞬を大切にしながら、表現を続けていくことが目標です。
―読者へのメッセージをお願いします
Ash: 役者が何のためにいるかというと、人を楽しませるためにいるわけです。私は、Yahoo!ニュースのライターもやっているのですが、Yahoo!ニュースの記事も、役者である私の目線で人を楽しませることができればという観点で書いています。
アートや表現に興味をもってもらえるような文章を発信したり、地域に演劇のタネをまいて育てる、ということは続けていきたいと思うので、面白そうだなと思ったら、気軽に遊びに来てください。私がいるところが、劇場だと思ってもらえたら嬉しいです。
現代社会は、地縁、血縁、社縁(職場の縁)が希薄になり、個々人がバラバラに分断され、多くの人が孤立するようになりました。そんな社会を修復するにはどうすればいいか。その一つの解が、新たなコミュニティを創造することだと思っています。